生焼けの肉(特盛)

140字で収まらないくだらない日常の思考をダラダラ語るブログです。

ノブレス・オブリージュと出る杭の話

 強く記憶に残っている小説に「東のエデン」という作品がある。あらすじをざっくり言うと何者かに100億円を与えられた"セレソン"と呼ばれる人達が日本の現状を変えるためにお互い駆け引きをしながら奔走するという話だった。

 元々は2009年というリーマンショックを発端とする不景気真っ只中に作られた作品で、社会の空気の変化への期待を感じさせるものだった。私が初めて読んだのは2012年頃、中学生の時だったと思うが、残念なことにその時も内容に希望を抱いたし、今読んでもこんなことが起こればいいのにと思うに違いない。多少はマシになったとは思うが、どうやら私たちの世代は好況に恵まれない世代のようだ。

 

 「ノブレス・オブリージュ」という言葉に出会ったのはこの作品の中でだった。"セレソン"に100億円を与えた側の人が"セレソン"にかける言葉、それがこの言葉であった。作中での訳は「持てる者の義務」。100億円をもらったなら日本を変えるために奔走しろ、と言ったところだろうか。

 本来の意味としては「身分の高いものはそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務がある、という欧米社会における道徳観」(デジタル大辞泉より)だそうだ。元ZOZOのお金配りおじさんはある意味でこれを実践しているのかな?

 影響されやすい中学生のことである、「やれそうなことは進んでやることが責務なんだ、じゃあ授業で聞かれたら分かった時はちゃんと答えなければ…」などと思うようになってしまった。単純だなぁ。

そんなこんなでどうにか破綻せずに高校生になった。

 

 高1の社会の授業が生徒に自由に発言を求め、ノートをまとめていくタイプの授業だった。初めのうちは中学生のノリで積極性を維持していたが、「自分より成績いい人の方が発言しないし、悪目立ちしたくないから発言回数を減らしていこう」と多少空気を読みつつ受けていくことにした。自分には責務を果たすほどの"ノブレス"はないという解釈である。

 

 ある日の授業のこと、私は授業の内容が知らないことばかりだったので発言せずにいた。たぶん周りもそうだったのだろう、皆黙々と授業を受けていた。そんな沈黙の講義の中、先生が激高し「誰も発言しないならいいです。」と言い、問いかけもせず、ただただ教科書の内容を板書するだけの授業になった。 数日経ってもそのままの授業を続け、「皆さん、もうこのままの授業でいいですよね?」とまで言った。

 たぶん生徒に圧をかけるだけで、誰も何も言わずともいずれは元の授業に戻ったのだろう。しかし、無駄な正義感を持っていた私は怒れる神に触れ、祟りを受けることになる。

 何を言ったかは黒歴史なので記憶を消させてもらうが、先生から「わかるやつは発言しろ!ノブレス・オブリージュも知らないのか!」と叱られた記憶だけは鮮明にある。その言葉に憧れを持っていた私は大きなダメージを受けたとともに、その言葉を受けるべき人は他にいるだろと思いながら怒声を浴び続けた。

 

 "ノブレス"(高貴さ、持つ者)の定義なんて人それぞれである。そもそも貴族と庶民という身分がはっきりしている環境ならまだしも、同じ学問を受けているクラスという中で持つものと持たざる者を分けるのは無理がある気もする。とはいえ、今後私たちが歩む道を考えると専門知識を持つものとして行動を起こす程度の積極性は持っておくべきではないだろうか。

 私が言いたいのはただ1つ、こっちも間違って恥かく覚悟で答えてるから、少なくとも僕より成績いい人たちもちゃんと講義での質問に答えてくれ。