生焼けの肉(特盛)

140字で収まらないくだらない日常の思考をダラダラ語るブログです。

エグいくらい低下した語彙力の話

 親に試験の成績を聞かれた時に「今回はマジでやばかった。」というと「いい時も悪い時もやばいっていいから分からないよ。」と言われる。中学生ぐらいまでは確かにそうだった。ただ、今は合格ギリギリの低空飛行であるため、実際には単一的な意味となっている。家に届く成績表を見て、親も本当のところは察しているに違いない。

 

 さて、友人と「やばいとかエモいと言った汎用性の高い単語が語彙力を枯らしていくよな。」という話が定期的に持ち上がる。そう言いながら私は多用してしばしば気まずい空間を創り出してしまう。

 「現代用語辞典でヤバいくらい語彙力が付きそう!」と迷言を生み出したり、「じーんときた」「身が震えるような感覚」と言えば感動の情景が目に浮かぶのに「エモい」で済ませたり、「良さみ」のように「み」を付けるだけで辞書に載っていない名詞を生み出したりするなど、知ってる単語で済ませてしまおうとする例は挙げるとキリがない。それが許されるのは入試の英作文だけだと言うのに。

 

 日本語の退廃に危機感を抱くことも大事だが、なぜ多用されることになったのかに目を向けることも必要である。一般に言われるように「本を読まなくなった。」ことが要素の一つであることは間違いない。

 ニュースや電子書籍は別として、私が書くようなブログやYouTubeなどに上がっている動画に使われている語彙はわかりやすさを優先した平易なものが多い。より多くの人に見られることが求められるコンテンツ産業ではしかたないことではある。

 しかし、私はそれだけでここまで普及したのではないと考える。

 

 では何が影響したのか。

 それは、広い意味を持つ単語を使うことで、見解の違いによる他者との衝突を避けようとしているという仮説である。

 作品の中の感動する場面は人それぞれであり、映画を見たあとに友達と話すと、視点の違いに驚かされることが多々ある。また、「解釈違い」という言葉があるように、自分の捉え方と相手のとが違った場合、両者の間に不穏な空気が流れることもある。

 こう言った場面で「エモい」という言葉を使うと、捉え方は違えど「その作品に心を動かされた。」という事実の共有は可能であり、軋轢を生まずに会話を続けることが出来る。これが汎用性の高い単語の普及の要因ではないか。

 

 これを人間関係の悪化を恐れたコミュニケーションの希薄化と嘆く人もいるかもしれない。しかし、これらの単語を使うから希薄化するのではなく、SNSなどによって希薄化した人間関係に適応するために生み出されたという因果関係に気をつけなければならない。

 私はこれらの単語が現代社会の中で自己と他者の緩衝材の役割を果たしていると思う。

 

 私は言語学者では無いのであくまで個人的な見解に過ぎない。そんな考え方もあるのか程度に見ていただきたい。

 あ、ここだけの話。CBTはガチのマジでやばい。どうしようか。